小島信夫『アメリカンスクール』、奥泉光×いとうせいこう「文芸漫談」、村上春樹『1Q84』

小島信夫アメリカンスクール』を二章まで再読して。

奥泉光×いとうせいこうの「文芸漫談」を下北沢タウンホールに見に行く。対象の作品は小島信夫アメリカンスクール』。

聞きに行ってよかった!今年一番じゃないかってくらい爆笑した。
三人称多元(ポリフォニー)の話、ドストエフスキー読んだばっかだったのでリアルタイムでおさらいになった。
その、ドストエフスキー的な三人称多元、つまり、作者の神的な意思に拮抗して動いてしまうアウトオブコントロールになってしまっているような登場人物の発言や行動、その拮抗の面白み、凄みとは違うところに小島信夫の『アメリカンスクール』の面白みはあるという。
テーマなんかどうでもいい次元で面白い、と。
もともと小島信夫の作品は読みながらニヤついてしまう箇所が多い。しかし、ホント分裂病のように視点、主語の切り替わりが激しく、どうでもいい箇所で引っかかりながら読み進めざるを得ない。
でも、、やっぱずば抜けて面白いのよ、この人のシニカルな笑いは。
カフカとの比較、やはり出てきた。
孤独なムードが通底していて、細部の描写が多く、中心の無い作品を描く作家だというくだりで。
いや、何より、とにかく笑った。超面白かった。。

てか、この作品が芥川賞取った時代があったんだな。

村上春樹1Q84 BOOK3 後編』に突入。
今のところ、読書の悦びの様なものは無い。文学を「識って」いる人が安易に書いた御都合主義なラブストーリーという趣。

文芸ブルータスの対談の中の「僕が研究している現代アメリカ文学って、どれも児童文学の語り直しという気がしている」という都甲幸治氏の発言がずっと引っかかっている。
これが村上春樹の作品の幻想的とされる要素にも当てはまっているように思えるからだ。
嫋やかに見える時間の流れ、ムードには深みがなく、後に残るのがただの幼児性であるような印象を強く受けた。
この読みやすさも、ただそういった幼児性に拠るものなのではないか。
こんなにチープな倒置の比喩表現を連発して使う人だったっけ。
腹が立ってきた。